生きているのか、生かされているのか
少し前の内容でかなりヒートアップして長くなってきているので、別に改めます。
ちょっと内容も変わりつつあり、だいぶ哲学的になってきました。^^;

<皆に生かされている>のなら、<皆によって描かされている>し、<皆によって作曲させられている>し、<皆によって、つまみを操作させらている>し、<皆「から、思いつきを与えられてる>わけですよね。

僕が思うに、表現者としての立場と、日々を生きているのとでは、一致する部分と、一致しない部分があると思います。生命体として生きていて、生かされていて。表現者として生きていて、生かされている。どんな観点から語るかでも内容は変わってきそう。。。
人の感情が怒っているときもあれば喜ぶときがあるように、受けるモノと行為に走る方向は必ずしも同じではないし、わーって怒りの絵を描くことも有れば、喜んで踊り狂うという方向に行くかもしれない。「生かされている」というのは、凄くマクロな視点での自分の存在を表していて、「クリエイトする」という行為はミクロなポジションでそれを表しているのだと思います。
上手くまとまらないのですが、僕らは常に何かをインプットしていて、それをアウトプットすることが表現だとすれば、インプットする何かというのは、自分の周りの環境であり、人であったり、外部からの情報であります。「皆に」という言葉が変な誤解を生むのかもしれないけど、「皆」というのは人だけではなく、様々な自分を取り巻く環境そのものだと思います。そしてその環境は勿論自分で創ることも出来るわけですが、自分のエゴのみで出来るモノではなく、色んな関係、つまり何かの一部になったり繋がりを創ったりすることで環境はできあがっていきます。反対に表現というのは、エゴそのものなのかもしれません。
表現するための要素、つまり外部からの情報やそこから生まれる感情が僕らを動かすのであれば、それには表現者として生かされているとも言えます。
それで僕が一番感じる重要なことは、人間というのはパイプやざるの様に入ったものをそのまま出す生き物ではなく、フィルターとして入ったものを浄化したり変質させたり、全く別のモノを生み出したりするような、ある種ケミカルな要素を持っています。
プリミティブな動物でもほ乳類でも、何かを体内に入れてそれを排泄物として外部に別の形ではき出しますが、それで生命としての環境というのは回っていきます。人間はその枠からかなり外れだしていますが、代わりに情報を取り入れて排泄しているような絵も描けるかもしれませんね。それでアウトぷっとするからには、外部に更なる影響を与えたい訳で、それが連鎖反応して、「智」や「情報」の生態系を生み出す。人と会話をするのもそういう感覚がないですか?喋れば喋る程、自分の中のモノが浄化されたり、お互いの考えが前に進んでいったり、巡り巡っている感覚。こうして文章を書いているだけでも僕の中では色んな化学変化が起こっていて、何かが沸いてきそうです。(笑)  そういう意味でも色んなことに感謝できそうです。

単純に生かしているとか、生かされているとか考えること自体が可笑しいのかもしれませんね。それこそ人間のエゴ的な感覚ではないかな。

> 自分は、単なる作用点にしかすぎないのに、例えば、自分オリジナルな作家性を追求することに、矛盾や虚しさは感じないでしょうか。

オリジナルな作家性や作品。これはまたちょっと違うイメージが僕にはあります。
昔はオリジナルというのは表現方法だったり、色味だったり、形だったりを考えていましたが、「今は何を言いたいか?」「何を思ったか」それをどう持って、どう実践しているかが問題な気がします。表現手法としてのオリジナリティが生まれる可能性というのは限りなく不可能とも言えますが、反対に表現する行為自体は無限だとも言えます。つまり同じツールや手法を使っていたらその枠から出ることは出来ないし、枠の中での表現はオリジナルでは無いとも言えるかもしれません。だけど、枠を考えずに表現したいモノを考えた場合、人の思考や環境というのは千差万別でみんなオリジナルであると言えると思います。(多分。。。)ただ、枠の中にいるだけでそのことに安心して満足しているとしたら、ただのマスターベーションで気持ち悪いですね。

生き方や人間性というのが表現者の要素としてかなり大切なのだと思いますが、それってやはり作品に顕著に表れるモノで、「生き方」「人間性」をどう高めてクリエイトしていくかで表現されるモノも大きく変わっていくと思います。役者、写真家。絵描き、音楽家、映像、彫刻、書、はたまた何かの企画書や手紙、料理に至るまで、それはかなりの割合で作者を反映しています。良い作品、オリジナルなモノを生み出したいのであれば、まず自分をどう磨いてどう高めていけるか。僕は他者に対して出来るだけ優しくありたいと思っているし、逆にそういう同じような気持ちを感じてもらおうと思って、そういう作品を創るには、自分がそういうモノを持たないと行けない。背伸びしたり、難しい表現を使うことで人間が豊かになるのであればそれはそれで良いかもしれないけど、結果そうなっていないと思います。技術を持っている人は居ますが、技術を見せることで感動するのは同業者くらいで、もっと単純に人を動かすにはそこの下にある、人間性や気持ち。つまりそれがオリジナリティとして、人を感動させられる様になるのではないかな。

ん〜、いまいちすっきり答えられてないな。。。
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by michiyuki917 | 2005-06-05 02:47 | I think
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