僕の家族
せっかくなので自分の家族について書いてみようと思いました。僕はかなり特殊な家庭に育ったので、他の人から見ると変な家だったと思います。だけど、そんな家族の中に生まれることが出来て本当に良かったと、心から思っているのです。

今日は僕の両親から。

単純にいうと、僕の両親共に声楽家(オペラ歌手)です。父親は大阪の出身で、母親は長崎県の波佐見という片田舎の出身。父親のお母さんは以前僕の日記でも書きましたが、フィリピンの女性で、スペインから移民してきた家系の出。どれくらいスペインの血が混じっているかは不明ですが、僕は確実にそのおばあちゃんのフィリピンやスペインの血が混じっています。

実はクオーターなのです。←ここ驚く所ね。

そして父はそんな祖母とフィリピンで駐留していた日本人の祖父との間の子で、戦後のどたばたの中日本に戻ってきてから生まれました。そしてその祖母は敗戦後の言葉も分からない日本で子供四人を育てていくことになります。この辺の詳しいことはまたいつか改めて書きます。そんなこともあり父は小さいときから決して良い境遇ではなかったし、父の兄弟は苛められたりしていたそうです。でもそれに負けず学生時代の父は哲学に燃え、大阪では結構名門の有名な高校に入りました。しかしベートーベンなどの音楽が好きだった父は、作曲や歌という音楽への道を進み始めます。そして東京の某音楽大学に入り、作曲と声楽を学びました。そこで僕の母と出会います。

さて、母の方ですが、出身地の波佐見町という町は、焼き物で有名な有田の隣に有る長崎県の僻地。佐世保に割と近い位置にあり、やはり焼き物の町。焼き物の町としての歴史はとても古く、秀吉の時代に朝鮮から技術者を連れてきたときからはじまります。そして磁器という焼き物を日本で初めて作った場所。有田よりも古いですよ。でもお隣の有田に名前負けして、殆ど有田焼として東京で見ることが多いです。^^;
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さて、脱線しましたが、実はこの母親はその焼き物の町のある窯元の跡取り娘でした。上に兄と姉がいてさ3兄弟だったのですが、子供の時に2人とも亡くしてしまい、母は一人っ子になりました。そして窯元の大事な一人娘として可愛がられ、お嬢様として?育ちます。中学時代は女性ながら生徒会長なども勤め、結構存在感を出していたようです。ちなみに母の中学時代の英語の教師は僕の英語の先生でもありました。そしてよく「お前は本当に加代の息子か?」っと言われたほど、母は成績優秀だったのですね。ちなみに僕も成績はそんなに悪くなかったですよ。むしろ良い方。^^;
そんな母も高校時代から音楽の道を考え、現役で東京の音楽大学に入りました。母型の祖父母は、卒業後は窯へ戻ってくると思っていたでしょうね。大学は花嫁修業だくらい。
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波佐見はこんな所です。


しかし、父と出逢ってしまった。。。
当然九州へは戻らず、窯の人々には反対されながらも父と結婚。窯元は娘が出て行ってしまったので、仕方なく跡取りには伯父を養子に入れ、窯をついでもらうことになりました。

父と母は音楽大学のバドミントン部で父が先輩で母が後輩という形で知り合いました。そして当時から父はオペラの世界を挑戦的に崩していくことを初め、卒業と同時に小さなオペラグループを結成し、現在までそれが名前と形を変えながら続いてきています。

僕が小学校へ通っていた頃、母は中学校の音楽講師、父はオペラ団体の運営や公演、講師もしていたかな。そんな感じで、両親とも外に出ていたので、僕は兄弟の世話をしたり、料理も結構早い時期からやっていました。包丁を持ってリンゴの皮をむいたのは小学校に上がる前ですね。すごいっしょ。父親はいつも夜遅く帰ってくるか、週末だけ帰ってくるような日々だったので、殆ど顔を合わせることはなく、週末にたまにキャッチボールやバドミントンなどをして遊んでもらえるのは何よりのご褒美でした。

そしてこの両親は僕を含めて、五人の息子を持つことになります。
すごいでしょ?五人いて、全部男ですからね〜。ちなみに僕は長男です。(納得?)

父親は殆ど自分の音楽活動に時間を費やしていたので、子供達は実質母が1人で育てたと言っても過言ではないです。そして僕ら子供達は何となくそれを感じ、母が毎日一生懸命外で働き、家に居ないことを受け入れ、家事や弟の迎えなど、母を助けて?いました。でもやっぱり子供ながらあまり親と一緒に居る時間がないのは辛いモノ。先日母が僕の相方に昔の日記(僕の)を見せたそうです。僕は全く記憶になかったのですが、そこには事実とは全く違うことが書かれていたそうです。こういったところに子供ながらの表現や見栄や、言いたくても言えないことが表れていたんだね。。。それでもって僕は学校が嫌いで、たまに仮病も使いました。そして仕事に行けない母親を困らせたことを覚えています。あと学校で具合が悪くなったときも仕事を早退して迎えに来てくれたりしました。先生の指導に対して文句があるときは正面から異論を唱えてましたし、逞しかった。僕は結構しっかりしてそうですが、当時は(今も?)結構寂しがり屋の恐がりでした。それに加え、僕とはまったく性格も行動も違う男が他に4人。。。我が兄弟ながら、想像を絶するものがありました。本当に毎日テレビの様な世界だったね。^^;

父と母は週末になると良くオペラの公演をしていました。どんな公演かというと、「街角オペラ」と銘打ち、文字通り街中の商店街や、デパートの前などでいきなりゲリラ的にオペラをするというモノ。毎週のようにやっていたように記憶しています。僕ら子供達は、それに参加して、良く子役、動物、木の役などをしていました。待ち時間にデパートのオモチャ売り場に良く遊びに行ったな。(笑)
そしてそんな中で色んな人と会い、沢山の大人を見たように思います。この両親だったモノで、家では毎日のように歌が聞こえていました。本当に耳にたこができたよ。でも自然に色んな音楽が耳に入ったので、プロの歌手が舞台で音をはずすと分かったな。
母親は子育てに対してはかなりの哲学を持った人で、食べ物とテレビには特にうるさかった。僕が小さい頃から食品添加物は絶対に食べさせないようにしていたし、テレビについて言えば、途中から無くなりました。これは子供にとっては一大事で、周囲の子供と共有する情報が全くなくなり、自分が好きだった番組も見られなくなってしまう!結果僕は近所の友達の家にしょっちゅう遊びに行ってはテレビを見せてもらってました。そこで行動力を身につけたかな?(笑)
その代わり、母は絵本や絵を描く道具、シンプルなオモチャなどを与えてくれました。結果我が家はどこを見渡しても落書きだらけ、破けた紙だらけ。。。子供が沢山居れば喧嘩もするし、それはそれは日々嵐のようでしたよ。ふすまや障子の紙が綺麗に貼られていたことが無かったように思います。はい、犯人は私どもですが。。。友達の家が綺麗なのが不思議でした。(笑) でも色々と与えられすぎなかったことは、子供のクリエイトする感覚をとても養ってくれたと思います。将棋がしたければ、自分で枠を作り、駒を作る。双六なんか自分たちで幾らでも考えられたし、トランプだってしょっちゅう作っていましたし、漫画とかも自分で描いたな、新聞紙は刀や手裏剣に変わり、チャンバラはしょっちゅう。そうやって自分でモノを作ることを学びました。

そして父は毎日1人オペラに励んでいました。。。(笑)

でも殆ど顔を合わせない父でしたが、不思議と冷たい人間だとは思わなかったし、むしろ尊敬していました。自分の道を力強く歩んで居る姿は大きく見えたモノです。そして未だにそのバイタリティは衰えることを知らず、最近は恐ろしい人だと思うようになりました。もうすぐ60歳になりますからね。(笑) 実質僕の年齢と同じくらいやっていて、30年程この活動を続けています。自分は30年やり続けられるかと聞かれたらどうだろう?やっぱり凄いよね。まずはそれを追い越さねば、っていつだよ。。。^^;

さて、僕が小学校を卒業する頃、母の実家の窯元を継いでいた伯父が、心臓麻痺で突然の他界。。。窯は再び跡取りを失うことになり、親戚会議が行われました。

結果→「娘よ、もういい加減波佐見に戻ってきなさい!」

母も相当悩んだと思いますが、子供達5人を連れて長崎へ引っ越すことになりました。そして父はそのまま東京に残って、オペラ活動を続ける。。。どこまでも自分のペースで、自分中心です。ここまで行くと本当に凄い。父は九州と東京を行ったり来たり。1〜3ヶ月に一度来る様な感じでした。でもって東京だけではなく、九州にも支部が出来たぞって感じになり、この長崎をベースに九州でもオペラ活動の展開を始めます。東京と九州の歌手達で九州オペラツアーなんかもしていましたね。僕ら兄弟もこの頃もやはり手伝わされ、裏方などは良くやっていました。歌でも多少は参加したかな?沢山の歌手達が僕らの家に泊まり、ここでも色んな人たちを見ました。現在は東京オペラ協会と言う名前で活動しています。来週の火曜日と木曜日には代々木のオリンピックセンターで「魔笛」と「フィガロの結婚」をそれぞれやっています。良かったら観に行ってください。

そして時代は進みますが、僕が高校時代の時、町の名士の1人だった母の父が他界。これまで窯を支えてきた大黒柱が居なくなり、ただでさえ大変だった窯の経営が更にきつくなってきます。窯と言っても伝統工芸的なモノではなく、主に家庭用に使われる茶碗や湯呑みなどを手描きで作っていて、職人さんを30人位雇っていたのではないかと思います。僕は当時高校でデザインを勉強し始めていました。当然祖父や窯の職人達は僕が窯を継ぐモノだろうと喜んでいたらしいですが、僕は全く窯への興味を持っておらず、東京へ進学の為に上京します。

そして時代は大量生産、大量消費の時代になり、手工業の窯は一気に大変になります。沢山抱えていた職人さんにも辞めてもらわないといけなくなり、かなり規模を縮小。そして最後に母の代で窯を閉じることに。。。一応窯は残っているので再開は可能だけどね。

お〜い、そこの兄弟!(って、お前じゃないのかよ!)

母は再び音楽方面での活動をメインにシフトし、現在は父のオペラの長崎支部の運営や福岡支部での指導や出演をしながら、町の児童合唱やママさんコーラスの先生、ピアノや歌の先生もしています。あ、母の実力について触れていませんでしたが、とても素晴らしいソプラノシンガーです。うちの父の舞台だけでなく、もっと色んな所でやって欲しいと思っていますが、どうだろう。。。


かなりかいつまみましたが、これが僕の両親のちょっとした姿です。かなり僕は2人の元で色んな経験をさせてもらいました。普通の家庭にあこがれたことも有ったけど、この2人の所に生まれて、色々と教えて貰いながら成長してきました。2人は僕の支えであり、原点であり、目標であります。特に支えは母親の方だけどね。(笑) これから僕が支える方に回らないとね。父も母もとても尊敬しているし、彼ら無くては今の僕はなかったな。色んな人に紹介したい自慢の両親です。みんな長崎に行く機会があったら、是非うちの母親に会いに行ってください。不良息子達はみんな父親を習ってか、家を出てしまい、5人いた息子達は既に巣立ち、大きな家は寂しくなってしまいました。でも最近実家で母と一緒にまた暮らしてみたいな〜っと漠然と思うようになってきた。

そうそう、窯は一旦閉めてしまったのですが、数年前、この窯をカフェとしてオープンしました。知り合いの人が運営してくれていますが、「四季舎」という名前を付け、窯で焼いたピザと、微妙な珈琲が飲めます。(笑) 山の上の方にあり、とても素晴らしい景色を見ながら珈琲やランチを食べることが出来るので、是非訪れてみてください。↓
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俺はいつ帰ろうかな〜。
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by michiyuki917 | 2006-08-25 01:44
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